歴史編3 衣文

衣文をぬく

「衣紋をぬく」とは女性の衿の着方を表した言葉です。仕立てる時は『繰越』と『つけ込み』の寸法が関係します。
衣紋がうまくぬけないでお悩みの方には長襦袢に衣紋ぬきをつける方法があります。詳しくは長襦袢についてを参考にしてください。

提髪
女性が繰越して着るようになったのは髪形が関係しています。 最初にはじめたのは鎌倉時代の若い男性でその扮装は受け入れられず 多くの日本人は首に沿わした衿の着方をします. 女性より男子の方が髪を結い上げました。 男性は烏帽子などの帽子をかぶる習慣がありましたし 月代(さかやき)は兜の中が蒸れないようにそったといわれています. 平安時代以降女性は下げ髪でした. 公家の上流女性は「おすべらかし」といわれる髪型をしましたが頭の後ろで髪を結わえるのは同じです。
兵庫髷桃山時代の慶長年間から(1595年から)唐輪髷が遊女の髪型として流行します。元和末から寛永の初期に神戸で唐輪髷が兵庫髷となり、女髷となりました。
勝山髷承応(1652)には 遊女勝山太夫が「勝山髷」を結います。御殿風の下げ髪から考案したと伝えられています。元禄のころ(1688年から)さかんになり 丸髷の起源となりました。日本髪は遊女や身分の高い女性に広まっていきます。
島田髷寛永ごろ(1624年)
歌舞伎役者の島田万吉が広めたという「島田髷」は東海道の島田宿の遊女からはじまったという説もあります. 島田髷は現在の花嫁の髪型の原型です。江戸時代の日本髪は何百種類とできました。結う時に髪油をつけます。首の後ろ側に髱(たぼ)と呼ばれる部分があり大きくなりますと衿に髪油がついてしまします。これをさけるために繰越が取り入れられたと思います。
舞妓江戸中期以降に上方から衿白粉(えりおしろい)といって襟首に 二本か三本の筋を描くお化粧法が流行します。現在では一般の人はしませんが舞妓さんや芸子さんなどがこのお化粧方法をしています. 一般の人が衿白粉をするわけでもないのに繰越を大きく開けるのはバランスが悪く 下品になります. 背中のしみもよくわかります。
繰越と色気は混同しないほうがいいです。
被衣江戸である事件が起きます。
1651年 由井正雪の乱
1652年 承応事件
当時上流の女性が外出する時に必需品だった被衣(かつぎ)を着て刺客が老中暗殺を企てます。1652年には江戸で被衣が禁止されます。被衣が禁止されると髪結いがいっそう広まったと思われます。被衣は嫁入りの道具として形式的に作られるようになります 。

歴史編4 おひきずり

おひきずりとは裾を長くして引きずって着る様子をいいますが、このような着物の事を 引着 といいます。うち掛けも引着の中にはいります。

おひきずりする前は?

小袖の図小袖
桃山時代に小袖は現在とほぼ同じ形になります。
男女共に身丈は対丈(ついたけ)で着ました。
衿に繰越はなく首に沿わして着ます。
袖巾よりも肩巾の方が広く
帯も男女とも腰で締めました。
女性の方がやや広く5センチから7.5センチでした。
小袖というのは袖口が小さいので小袖ということらしいです。

 おひきずりするようになった理由 二つの出来事。

寛永3年(1626年)と寛永5年(1628年)に幕府より織物の丈尺規定のお触れが出されます。これにより従来の織物の巾が狭くなり丈は長くなります。なぜこのように反物の巾をせまくしたのかわかりませんがこのお触れで身巾が従来より狭くなりました。現在の袖巾の方が肩巾より広いという仕立てになります。また裄を長くしてはならないというお触れが出された時もありましたので贅沢な衣類を禁止しようとしたのではないかと思われます。 身巾がせまくなると足さばきが悪くなるります。現在 芸子さんなどが衽を少しひきかえして足さばきをよくする着方がありますが、それはこの頃から始まったとされています。褄下を持って上にあげて歩くという着方もうまれました。
もう一つは大火です。1657年江戸で明暦の大火がおきます。この火事は江戸の町をほとんど焼き尽くす火事だった為にいろいろな生活必需品が不足します。着物も当然 必要になります。このような中で商人達がうまく商売を行って ますます財力をつけました。
大火はその後も続きます。 1681年水戸大火 1682年江戸大火(八百屋お七の火事)
小袖の身丈を対丈でなく5寸から6寸長くしたのはいつ火事がおきてもすぐに逃げられるように掛け布団と小袖を兼用した事からはじまるという説があります。天和年間ごろ(1681年~)からおひきずりははじまりました。菱川師宣の見返り美人は裾が長くなっています。

着物と布団兼用
対丈では足が出るので掛け布団のかわりになりません。 男性は袴を穿く習慣がありましたのでおひきずりはしませんでした。 文献によると享保の頃に始まったと書いてある本もあります。よっぽどの貧乏人や下女以外は室内ではおひきずりにしたそうです。外に出る時は 裾をあげる為に しごき帯が考案されます。 現在ではおはしょりをして帯を結ぶ前に裾をあげて着ます。 江戸時代は多くの倹約令や禁止令が出されます。 おひきずりを禁止してもおかしなくないと思うのですが、掛け布団と兼用するという大義名分があったからでしょうか不思議と禁止されていません。関東ではかい巻きといって民間で木綿や麻の綿入れの夜着がつくられました。京都 大坂では丹前と呼びました。関東から上方に伝わったということです。掛け衿の風習も小袖にはなかったようですが布団と兼用した為か衿が汚れるので掛け衿の習慣もうまれます。 5代将軍綱吉の生母は町人出身でしたが掛け衿をしていたそうです。(文献に残る身分のある女性ではじめて掛け衿をした人)


身八つ口や振り口について

身八つ口ができたのは?

昔は婚姻すると男性と同じように脇にあきをつくりませんでした。文化年間(1804)ごろから既婚女性でも八つ口をつける習慣がうまれたそうです。帯の巾が広くなる事が原因のようです。
またこのころ掛け衿を黒にする事が流行し裏を返せば普通の衿になります。晴れの日と普通の日を使い分けました。
夏 浴衣の衿の裏に紅絹や緋ちりめんをつけて部分的に裏がえすという着方が流行した時もあります。

歴史編4 女性の帯

帯の結び方 男女の歴史

帯の結び方は三種類あります。後結び 横結び 前結びです。結婚すると前結びにする習慣がありましたが前で結ぶと日常生活は邪魔になる為だんだんと廃れて遊女や老女だけに前結びの習慣が残ります。遊女の場合、たとえ一晩でも妻として一夜を過ごしますという事だそうです。余談ですがお江戸の町は男性の方が多く、女性を大切にしないと相手にされなくなるそうで独身の男性も多く、男性の再婚は難しい時代だったそうです。
時代がすすむにつれてより装飾性が増して、帯巾がひろくなります。帯巾がひろくなると横結びはやりにくいので後結びか前結びの方が支流になります。歌舞伎役者が帯結びを考案し流行させます。女形の役者が少しでも理想の女性に見えるようにするために大きな帯結びにしたようです。吉弥結び 路孝結び 水木結び 平十郎結びがあります。
帯締め 帯揚げは帯の結ぶ形にもよりますが帯巾が広くなり帯だけでは重さに耐えきれない為に帯揚げが考案されます。また綸子の生地がほどけやすい為にそれを補う為に帯締めが考案されます。

名護屋帯名護屋帯は組紐の帯です。文禄の役で九州名護屋(佐賀県)に本営を置きました。そこで韓組の技術が伝えられました。長さが1丈2尺(約4m50)ほどあり幾重にもまわして締めました。男女共用いましたが宝暦ごろまで使っていたようです。


歌舞伎役者が考案した帯

吉弥結び◎吉弥結び
女形歌舞伎役者 上村吉弥が延宝の頃(1673~)考え出した結び方。図は男帯で結んだものです。
歌舞伎の演目お染久松「うきねのともどり」で久松が朱子帯でこのように締めています。イヤホンガイドの方が説明されていたので間違いないと思います。
このころの女性の帯巾が27センチと現在に近くなります。
そのほかの吉弥結び左の図のような結び方が吉弥結びとしてのっている本があります。昔の広辞林には蝶々結びを伸ばしたような絵が描いてあり、結んだ両端を従来より長く垂らしてくけ目の角に鉛の重りをいれたと説明されています。他には斜めに結ぶ腰元結びのような図がのっていたりします、どれがほんとうなのかよくわかりません。
水木結び◎ 水木結び

水木結び元禄年間(1688~)歌舞伎役者水木辰之助が流行させた水木結び。
この結び方はだらり結びに発展、舞妓さんが結んでいる帯です。

路考結び◎ 路考結び 二代目 瀬川菊之丞(1741~1773)名代俳号が路孝といった。美貌で「王子路孝」とよばれる。王子村の農民出身の女形。お太鼓結びの原型。文化四年(1817)に江戸亀戸天神のお太鼓橋再建によって お太鼓とよばれるようになった。帯枕がいつごろから使われるようになったかは不明
平十郎結び
◎ 平十郎結び三代目女形村山平十郎が流行させたいつの頃の人かよくわかりませんが初代は立役で元禄時代に活躍した人です。享保年間(1716~35)このころ帯巾が34センチが基準

しごき帯

現在はおはしょりをしてきますのでしごき帯を一般の人はほとんどつけません。七五三、花嫁衣裳、舞妓さんが遠出をする時などは使用します。おひきずりが当たり前だった頃にはしごき帯も普段に使用しています。
鈴木春信 「隅田川河畔春遊図」 女性がしごき帯をつかって裾を上げているのがわかります。

鈴木春信 「隅田川河畔春遊図」