織物編7 日本の織物の歴史

織物がさまざまな形で移入されて日本独自の織物が発展していきます。帯地だけでなくいろいろな装束や調度品に用いられました。
ここでちょっと絹の歴史です。 紀元前2600年ごろ中国の伝説の黄帝の妃が養蚕、繰糸、手織の術を知っていたという記録に始まり、その後アジア、ヨーロッパに伝わりました。日本には4世紀~5世紀、仲哀天皇のころに蚕種が中国から伝来、応神天皇のころ秦氏の祖である弓月君(ゆづきのきみ)が127県の民を率いて来朝し養蚕、機織を伝えたとされています。 推古天皇の時代、603年冠位十二階を制定、文武天皇の時代、701年大宝律令が完成します。
大宝律令から冠位によって絹を着る、何色を着るなどという装束の規定が決まります。ちょっととびますが、平安時代以後、公家貴族が儀式や行事から日常生活に使う装束や調度品などの作法が整えられていきます。この作法があまりに複雑になってそうしたことを研究する学問までできます。これを有職故実といいます。武家が政治を行うようになる室町時代には武家故実がうまれました。赤穂義士の討ち入りの発端となった江戸城での刃傷事件、吉良さんはお公家の作法にくわしくそれを若い浅野さんに教えるお役目でした。江戸時代になって伝統的な優れた染織物に『有職織物』や『有職文様』と称して他と区別します。武家の何家だけが使える文様などもうまれたのです。織物は決して長く保存できるものではないので有職織物の原形となる平安時代の織物はほとんど残っていません。鎌倉から室町時代に舶来染織品を大切に保存する事が流行しました。茶人達がすぐれた品をコレクションしたのです。これを『名物裂』といいます。布の端きれが残されています。足利義政らが収集した『大名物』と称するものもあるそうです。名物裂の中には中国の織物だけでなく間道や更紗などもふくまれていて中央アジア、西アジア、南アジアの織物があり、アジアの染織品を研究するうえでも貴重な資料です。裂だけでなく工芸品、書画、茶道具もあります。そして『名物裂』『有職織物』『有職文様』が着物や帯に使われています。現在は着物離れになってしまいましたが日常着物を着ていた時代まではありとあらゆる物が着物の柄になったのです。江戸時代の後期に『しらみ小紋』という柄が紹介されている本があるそうです。しらみを柄にしちゃうんですから江戸時代の染屋さんならばパソコンや携帯電話の柄を着物に描いたのではないでしょうか。

基本的に織物は大陸から学んだものです。日本にさまざまな織物が生まれた背景には 江戸時代(戦のない時代になったこと)に地域で産業をさかんにするために 藩主が織物を作るように命じました。最初の技術は大陸からでも そのあとは独自の織物がうまれます。個性のあるものを作るからこそいいわけです。

帯地の名称

名称 説明
錦 (にしき) 絹の色糸をつかってさまざまな文様を織り出した織物の総称。経糸で文様をあらわす経錦と緯糸で文様をあらわす緯錦がある。日本では中国の渡来人から技術を受け継ぎ奈良時代に緯錦の国産が可能になる。現在はつづれ錦、糸錦、唐織、大和錦、などがその範疇にはいる。
金襴 (きんらん) 中国11C~12Cに始まり日本に輸出され珍重された。日本では17C西陣で織られた。中国では織金としょうした。紙に漆で金箔を接着しそれを糸にして織る。他に色糸も使う。銀糸を用いた物を銀欄という。
緞子 (どんす) 中国宋代に始まった精妙な織物。16Cごろ堺について西陣で織り出す。綸子の織物で表と裏を反対に織り出す。地を経五枚綸子とすると裏が緯五枚綸子で文様をあらわす。名物裂では組織に関係なくこの特徴を持つものを緞子と総称する。
羅 (ら) 中国では漢代から始まり、日本には飛鳥時代に移入されて正倉院に保存されている。無縁ながらアンデスでも生産されているが中国、日本では絹糸、アンデスでは綿糸。広い義には粗く薄く織られた織物の総称。他に絽や紗がある。狭い義は経糸に別の経糸がからんで地組織を作る。からみ織、もじり織ともいう。奈良時代には装束に利用されたがその後衰退し、大正時代に西陣で復元されるが現在では紗や絽のように広くは用いられない。