歴史編6 男物の羽織

羽織の成り立ち

男物の羽織羽織がどのようにして作られたかはっきりしたことはわかりません。三種類の着物が混ざって現在の形になったようです。男性が着ていた着物からできた為に羽織は男性が着るものという考え方が根強くあり、現在でも女性の羽織は第一正装ではないとされています。私見ですが、公序良俗に反しない限り誰でも何処でも着ればいいと思います。

十徳十徳
胴服胴服
陣羽織陣羽織

  1. 十徳
    鎌倉時代に身分の低い人が着ていた。 羽織に一番近いが広袖で丸みがなく, 衿を折り返さない。 襠はなく襞を取る。薄物の単衣。定紋はない
  2. 胴服 室町時代に武士が着用した防寒着。衿巾が広く、内側に折って着た。紐は皮製で作られていた。
  3. 陣羽織 室町時代に武士が鎧の上に着た防寒着。 装飾的に優れた着物。

安土桃山時代

袖なし羽織

桃山時代 背われ羽織 袖なし

羽織は桃山時代には現在の形となったようです。最初は胴服と同じように衿を内折にしていましたが1580年~1600年ごろには外折になったようです。現在 女物の羽織は衿を外側に折りやすいように千鳥ぐけをしますが、男物はなにもしません。男物の羽織の衿は内側に折っても間違いではないのです。凡人が内側に折って着ても、間違ってきていると思われるだけですが・・・。羽織は時代で流行した形があります。桃山時代末期には袖なし羽織が流行します。テレビの時代劇では佐々木小次郎 宮本武蔵が右記のような羽織を着ています。刀を携帯する武士は背中を開けています。

ぶっさき羽織

背縫い目の下が割れている羽織のこと。武市は騎馬や旅などに用いた。テレビの時代劇では捕り物の時に役人などがこれを着ています。袖ありと袖なし両方ある。


江戸時代

羽織 袴 裃
武士が着ていた羽織は庶民にも広がります。しかし正装は裃(かみしも)であり羽織は平服でした。武士は明治まで正式には裃が正装でした。
羽織は平服ではありましたが将軍が褒美として下賜したりすることもあり、羽織の格は上がっていきます。江戸の町には武士、町人、職人などがいる中で 羽織は身分の高い人やお金持ちが着たようです。庶民には簡略化した「半纏」の方が扱いやすくなります。職人は得意先からもらった定紋や屋号のついた半纏を盆暮れに着て数を競ったりします。また、通人とよばれる流行を作り出す人達がいました。
通人は「歴史編5 江戸時代の男性の服装」参照ください。この流行は通人が作り出したものがすべてということではなく幕府が行った三大改革 享保の改革 寛政の改革 天明の改革などにも関係しています。倹約令や奢侈禁止令により 派手な物が着れなくなったりするからです。おおまかな流行は 寛文のころが長羽織 元禄のころは短羽織 元文・延享のころは長羽織 宝暦・明和のころは短羽織 安永・天明のことは長羽織 寛政のころは袖なし羽織 文化・天保のころは短羽織というぐあいだそうです。 明治 大正時代は長いと思います。

肩衣

肩衣
義太夫をかたる太夫は肩衣を着ます。裃とは違う どう違うのか?深くはわかりませんが違うそうです。物の本によると 上衣と下衣が別裂が多い。裃は共裂。正式な素材は麻。時代で肩巾が広くなったり、肩にクジラのひげをいれて一文字にしたり、前身のヒダができたりした。

庄屋羽織
蝙蝠羽織

  1. 庄屋羽織 座った時に丁度裾が床に付く長さの羽織。はぶりのよい銀座の役人が着た短羽織。後に商人の間で用いられて庄屋羽織ともいわれる。
  2. 蝙蝠羽織 寛永11年(1611)「かははりはをり」の流行。その後長羽織の流行の後。正保から元禄の頃再び流行した。振袖で身丈が短い。若衆が着た。 元服前の月代をそっていない男子

陣羽織の行方

陣羽織は戦(いくさ)の時に着られましたが 戦のなくなった江戸時代には「火事羽織」として残っていきます。江戸時代は火事がたくさんあって大変でした。「1634年 大名火消の制」「1658年 定火消し」がおかれます。火を消す時に着る装束を火事装束といいますが背中には家紋をつけて誰なのかをはっきりさせていました。
適当に描いた火事装束
火事を消す仕事は大変な仕事ですから次第にヒーローともなるわけです。江戸っ子の気質なのか派手な火事装束で競う合うようになります。当時火事羽織で一番高価な物はラシャ製でした。だいたいは革製でした。
あまりに派手な火事装束がうまれたせいか1690年には「火事装束華美禁止令」がだされます。その後も派手な火事装束を禁止するお触れが出されます。 1720年には将軍吉宗が町火消し「いろは組」をつくります。最初は47組でしたが後に48組できます。何組かわかるように背中に「い」「ろ」といったひらがなの大きな文字をつけました。町火消しの火事羽織は半纏といったようです。また紺木綿で刺し子がしてありました。八代将軍吉宗と将軍の座を争ったといわれる徳川宗春の火事装束で豪華な物が残っています。

男性の衿に千鳥ぐけをしないのは
男性は羽織の衿を折って着たり、折らずに着たりと二通りの衿の着方をしていたからだと思います。陣羽織 胴服 十徳 それぞれ衿の形や衿巾が違いますが、衿を外側に折って着ない着物です,衿を折って着る着方を誰かがはじめて それが広まり、現在では羽織の衿は折って着るのが普通になりまし。私の学校では男物の羽織に千鳥ぐけはしないとはっきり習いましたが 理由までは教えてくれませんでした。先生も理由は知らず、その前の世代の先生に教わった事をただ次の人に教えただけです。それが伝統だといわれればそんなものかと納得するわけです。巷では 男物の羽織でも衿に千鳥ぐけがあるものを見ます。衿を外側に折る時には千鳥ぐけがある方が 折りやすいと思います。しかし 折らないで着るなら千鳥ぐけは必要ありません。 千鳥ぐけをいれなくても 着れる確かです。


歴史ちょっと話

江戸時代 庶民がたいした家財を持っていなかったというのはほんとうのことのようです。火事が多いということもあったと思いますが。持ち家で家財道具もすべて自分の買った物ならば火事で燃えれば失ってしまいます。もともと持たなければ 自分の身だけを心配すればいいのです。江戸時代には鍋や釜などの日常品を貸してくれる貸し業者がたくさんあり借りていた方が庶民には得だったというのですからありがたい話です。日本を訪問した外国人が火事後の日本人の様子を見て驚いています。西洋人なら火事で家などを失ってしまったら 気持ちが落ち込んでしまうのに日本人は火事のあった次の日から 元気に家を建てはじめるというのです。いかに火事に慣れっこだったかわかります。この庶民というのは都会に住む長屋の住人ということです。現在でも地方の家は農業や養蚕をしていた名残があり ウサギ小屋とはほど遠いです。