歴史編8 南蛮風俗

南天

南蛮風俗

洋装が取り入れられた時

南蛮屏風

南蛮屏風一部分

桃山時代 16世紀中ごろからポルトガル人やスペイン人が貿易や布教の目的で來船します。その時の衣装風俗を日本人なりにと取り入れ現在まで続いている物があります。漢字は当て字にされました。

取り入れられた風俗

坊主合羽

合羽(カッパ)・capa
宣教師が着た物から取り入れた合羽を坊主合羽と呼びます。時代劇で織田信長がよく着ていますが木枯らし紋次郎などやくざな人が着るイメージが定着しています。京・大坂では「引き回し」とよびました。

半合羽

坊主合羽は着物に会うように変形します。男性は衿が小さく付いていて長さにより半合羽 長合羽があります。参勤交代時に武士が道中に着たり 武家に出入りする商人達が着ました。江戸時代初期には高価なラシャ製の合羽は禁止になりました。そのために紙に油をつけた紙合羽が考案されます。木綿が普及すると木綿製の合羽が作られましたが 時にはお触れで庶民の合羽が禁止の時もありました。

鷹匠合羽

現在の道行きコートは元々「鷹匠」や「餌差」が着ていた鷹匠合羽からきています。江戸時代は男性が着ていました。道行とは駆け落ちの事です。歌舞伎や人形浄瑠璃で「仮名手本忠臣蔵」という演目の中の「お軽勘平道行の場」で 勘平がこれを着たことで、大変な人気がでて、道行という名前で呼ばれるようになったそうです。

江戸時代 女物道中合羽

女性は道中合羽を着ます。現在の道中着とは少々違います。現在と大きく違う所は「しごき帯」であげて着ていました。衿は汚れを防ぐ事や補強の目的で黒い布をつけていたようです。江戸時代の旅にはそれなりに必要なことだったのかもしれません。藍で染める褐色(かちいろ)の道中合羽を描いてみました。

歌川広重「東海道五十三次」の一部分

武家の女性は文庫結びをしました。お太鼓結びならば背中が少し膨れる程度です。文庫結びになると後身頃にゆとりがないと着にくいです。また見栄えもよくありません。帯が綺麗におさまるように袋というものを作ります。左記の浮世絵は文庫結びをした女性ではありません。歌舞伎の「一條大蔵譚」という演目の中で吉岡鬼次朗幸胤の妻お京が袋のある道中着を着て登場します。

軽杉

軽杉(カルサン)・calçâo
山袴の一種で以前からあるのですが、南蛮人の袴姿が印象的だったらしくこの名で呼ばれるようになりました。江戸時代になると「もんぺ」も労働着として登場します。

肌襦袢

襦袢(ジュバン)・gibâo
肌着の事を古くは襯衣(しんい)といいました。お袖のないベストのような形をしていました。お袖が付いた肌着を南蛮人が着ていたからなのかいつしか肌着を襦袢といいました。上半身だけのものを半襦袢といいました。
江戸時代には幕府の奢侈禁止令などから派手な小袖が禁止されたので変わりにおしゃれな長襦袢が作り出されます。庶民の工夫で見える所だけ派手な柄のある布使ったりするなどします。この長襦袢をうそつきといいます。長襦袢は町方で着用されたが武家では明治からと書いてある本がありますが それとは全く反対で腰元がポルトガル人の襦袢から発想をして長襦袢を着るようになったと書いてある本もあってどちらが正しいのかはよくわかりません。

南蛮人

釦(ボタン)・botâo加藤清正の鎧の下の肌着にボタンとボタンホールがついているそうです。
元禄時代の三井家初代の足袋にもあるそうです。足袋は紐で括っていましたが 元禄時代に「こはぜ」が考案されました。v

更紗

更紗(サラサ)・saraça南蛮船によって舶載されたインド・ペルシャ・シャム・ジャワ・スマトラ産の文様染めの木綿布。「皿紗」「佐羅紗」の当て字もある。

ビロード

ビロード(天鵞絨)・veludo

ベルベットと同義語。パイル織物の一種。
詳しくは次の履物編6 花緒の素材参照ください。

紅毛人巡見之図

羅紗(ラシャ)・raxa厚手の毛織物。
詳しくは次の歴史編9毛織物についてを参照下さい。

取り入れられたけれど・・・

立ち衿と宣教師

南蛮人の衿型から立ちえりができました。この衿は着物にはあわないと思ったのでしょう。現在では誰もしません。しかしこんな衿の着物があったとわかるのは歌舞伎でこのような衣裳を着た人が登場するからです。金糸銀糸を織り込んだ有職文様で悪玉善玉関係なく身分の高い男性の衣裳です。
この衣裳を「小忌衣」(おみごろも)というそうです。「義経千本桜」 源九郎判官義経 「本朝廿四孝」 長尾謙信 「女夫狐」 楠正行などがこの衣裳を着ます。
ひだ衿もめだちますが他にもめだつ理由があります。前を結ぶ紐が通常の羽織紐とは異なり、でかくて一見みただけではどうなっているのかわからない組紐を使っています。絢爛豪華な衣裳が裾まであるロング丈になっていますので迫力があります。袖付、袖口下、脇の部分を組紐でつなげています。甚平さんのような簡単な千鳥絎けではなくもう少し複雑な形になっています。理屈がわかっても描くのは難しいのでみなさん歌舞伎を見てください。番付けや筋書きを購入すると写真があるのでよくわかります。

百人一首 良遷法師

ところでこのひだ衿はエリザベス1世(1533~1603)の肖像画などを見てもわかります。つまり西洋では男女関係なくこのような衿型の衣裳を着ていたのです。確かに着物にはあまりにあわないデザインですが寒さ除けにはなったのではないかと思います。余談ですが百人一首のカルタのお坊さん達は広衿を立てて法衣を着ています。一度しか見た事がないのですが、奈良のお水取りの行では紙で服を作ります。その中に首筋を保護するような物があります。犬や猫が薬をなめたりしないように首につける物をエリザベスカラーと呼ぶみたいですね。

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