木綿の栽培について
時は過ぎ 応仁2年(1468)に輸入木綿をあつかう布座、小物座が専売権を争います。一年前におきた 応仁の乱が1477年まで続くために 頓挫してしまいます。 大永1年(1521年)に薩摩から棉作がはじまり 西に広がります。大永6年(1526年)には河内木綿の生産が行われています。その後は南蛮貿易がさかんになってポルトガルから種を買ったり中国から買ったりしていますが、 必ずしも日本の土地に根ずくとはかぎらなかったようです。
安土桃山時代になり豊臣秀吉が李朝に出兵します。 1592年文禄の役 1597年慶長の役で大陸に渡った兵士が棉種を持ち帰ったりもします。1596年 農学全書には棉作が定着したとの記述もあります。
江戸時代に入って「1628年寛永5年2月9日には幕府が百姓の衣服は布 木綿に 名主及び百姓の妻女は紬まで それ以上の贅沢は許さず」というお触れがでます。布というのは麻のことをさします。紬とは屑繭を使って作った絹織物のことです。 絹糸で作っているのですが上等品とはみなされませんでした。 紬はあくまでもおしゃれ着で正装ではないとされる由縁はここからきています。 幕府がお触れをだすくらいなので木綿を輸入していたのでは高価なものになってしまします。従って江戸の初期には 北九州と畿内で木綿の栽培は定着していたと思われます。東日本にまで普及するには江戸中期ごろまでかかったということではないでしょうか。棉の木は暖かい所を好む植物で福島県以北では栽培できません。また東北地方では木綿を着ることが許されていませんでした。従って東北地方では木綿は高級品でした。真岡地方で木綿が栽培されるのは享保のころで最もさかんに栽培されるのは文化文政の頃だそうです.
足袋について
現在の足袋は木綿で作られています、木綿のない時代は何で作っていたのでしょうか?答えは皮です。 鹿の皮で作られていたそうです。宇治拾遺物語には猿皮で作った事が書いてあるそうですが主に鹿の皮で作られ 鹿の皮ひもで足首をくくっていました。鎌倉時代 足袋は武家では決まりがあって 50才以上、病人は許可制でした。素足が基本だったということでしょう。 室町時代から江戸初期 女性は 鹿皮を紫色に染めた「紫たび」が流行し男性は白色だそうです。皮製の足袋が木綿に変わるのは江戸に大惨事があったからです。 1657年 「明暦の大火」がおこります。この大火は江戸のほとんどを焼いてしまいます。これを境に 足袋の素材は木綿にうつります。天和(1681年~83年)ごろ 畝刺足袋が流行します。元禄ごろにはこはぜが考案されて 鶴 水牛 鹿 などの骨や角をつかっていましたが 安政ごろに真鍮になったようです。裕福になった人達用に絹の足袋も作られました。 「能」や「狂言」で黄色の足袋をはいているときがありますが、足袋が鹿の皮で作られていた名残だそうです。 「つまんで放る 春の皮足袋」という川柳があります。昔は今より涼しかったかもしれませんが 皮製のくつ下を履くようなものですから考えただけでもむれますね。
木綿と襦袢について
木綿と職人風俗について
江戸時代 左官 大工 鳶 鋳掛屋 植木屋などの職人の服装は共通していました。元々は身分の高い武士が着ていた股引(絹製)が天明(1781)のころに町人も着るようになり寛政(1789)のころに流行します。 天明(1784)には「印半纏」が現れます。素材は紺木綿を使っています。職人は股引,腹掛け,帯は3尺の手ぬぐい,麻草履,草鞋履き ご贔屓先から頂いた印半纏を盆や暮れに着て、時には重ねて着て数を自慢しました。ご贔屓先からお正月前にいただく慣わしがあったようです。