歴史編7 女性の羽織

南天

女の羽織の成り立ち

女性の羽織

いつから女性が羽織を着始めたのかは本によって記載が異なります。文禄の頃には夫の羽織を借りて着ていたという説 と 元禄の頃からだという説があります。どちらにしろ女性も羽織を着ていました。江戸時代は戦(いくさ)がありません。当然 平和になればおしゃれを楽しむ余裕が生まれます。羽織だけでなく髪形や小袖や帯などの服装全体が変化します。女性の羽織が定着せず 男性のように正装にならなかったのは 江戸時代の政治に関係します。服装に関する江戸幕府の取り締まりで厳しいのは寛政の改革と天明の改革といわれています。女性の羽織については1748年と1841年に女性羽織の着用禁止のお触れが出されます。このようなことにより女性は羽織を着る事ができなくなりました。
羽織が禁止された時 かわりに「窮屈羽織」が作られました。衿は折らず襠と前下がりがなく 袖は広袖で 綿入れの時もあります。防寒着なので 男性も着ました。

深川の辰巳芸者について

 

辰巳芸者のかってな想像図

 

徳川家康が江戸に移った頃の「深川」は州で家が建つような土地ではありませんでした。江戸が日本の中心になると人口が増えます。度重なる火事や台風などの自然災害で廃材の捨て場が必要です。また人口が増えればごみも増えます。いつの時代でも同じです。こうして深川はごみを捨てる場所として埋め立てられていきます。徐々に火事で焼け出された人たちが移り住んだりもして幕府が公共事業として整備しました。こうして船を使って移動する町が出来上がります。便利になれば遊ぶ人も増えていきます。幕府が認める郭は吉原ですが、この吉原は何かと規則がやかましいのとお金がかかるので庶民にとっては深川の方がきらくに遊べる場所でした。江戸城から見て深川が辰巳の方角にあったのでそこで働く芸者衆を辰巳芸者と呼びました。羽織芸者と呼ばれるようになったのは諸説ありますが真偽のほどはよくわかりません。幕府の取締りが厳しい時もあったので言葉だけが残り羽織を着る習慣が廃れた時期もあったようです。辰巳芸者は江戸前の気風のよさを売りとしましたので冬でも素足。芸者名も男名前がつけられました。

羽織芸者の諸説

  1. もともと芸者というのは男の仕事であり、男芸者すなわち幇間(たいこもち)のことでした。幇間はひいきの旦那衆から羽織をいただくという習慣がありました。こうした昔の風俗が残って女性ではあるが羽織を着る習慣があったといいう説 。
  2. 江戸の官許の郭は吉原ですが、吉原の芸者が羽織を着ることが禁じられていたので 辰巳芸者が向こうを張って羽織を着たという説 吉原に対抗したということでしょう。
  3. 14,15才ごろの若い芸者をお客が男装させて船遊びに連れ出したことから始まるという説。現在でも深川髷という独特の男髷で芸者衆が祭りに参加する事があります。
  4. 女性が派手な格好をして町を歩けば風紀を乱すというお上に対抗したという説 。
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