おひきずりと引き着
おひきずりとは裾を長くして引きずって着る様子をいいますが、このような着物の事を 引着 といいます。うち掛けも引着の中にはいります。
おひきずりする前は?
小袖
現在とほぼ同じ形の小袖が桃山時代にできました。
男女共に身丈は対丈(ついたけ)で着ました。
衿に繰越はなく首に沿わして着ます。
袖巾よりも肩巾の方が広く
帯も男女とも腰で締めました。
女性の方がやや広く5センチから7.5センチでした。
小袖というのは袖口が小さいので小袖ということらしいです。
おひきずりするようになった理由 二つの出来事。
寛永3年(1626年)と寛永5年(1628年)に幕府より織物の丈尺規定のお触れが出されます。これにより従来の織物の巾が狭くなり丈は長くなります。なぜこのように反物の巾をせまくしたのかわかりませんがこのお触れで身巾が従来より狭くなりました。現在の袖巾の方が肩巾より広いという仕立てです。また裄を長くしてはならないというお触れが出された時もありましたので贅沢な衣類を禁止しようとしたのではないかと思われます。 身巾がせまくなると足さばきが悪くなるります。現在 芸子さんなどが衽を少しひきかえして足さばきをよくする着方がありますが、それはこの頃から始まったとされています。褄下を持って上にあげて歩くという着方もうまれました。
もう一つは大火です。1657年江戸で明暦の大火がおきます。この火事は江戸の町をほとんど焼き尽くす火事だったためにいろいろな生活必需品が不足します。着物も当然 必要です。このような中で商人たちがうまく商売を行って ますます財力をつけました。
大火はその後も続きます。 1681年水戸大火 1682年江戸大火(八百屋お七の火事)
小袖の身丈を対丈でなく5寸から6寸長くしたのはいつ火事がおきてもすぐに逃げられるように掛け布団と小袖を兼用した事からはじまるという説があります。天和年間ごろ(1681年~)からおひきずりははじまりました。菱川師宣の見返り美人は裾が長くなっています。
対丈では足が出るので掛け布団のかわりになりません。 男性は袴をはく習慣がありましたのでおひきずりはしませんでした。 文献によると享保の頃に始まったと書いてある本もあります。よっぽどの貧乏人や下女以外は室内ではおひきずりにしたそうです。外に出る時は 裾をあげるために しごき帯が考案されます。 現在ではおはしょりをして帯を結ぶ前に裾をあげて着ます。 江戸時代は多くの倹約令や禁止令が出されます。 おひきずりを禁止してもおかしくないと思うのですが、掛け布団と兼用するという大義名分があったからでしょうか不思議と禁止されていません。関東ではかい巻きといって民間で木綿や麻の綿入れの夜着がつくられました。京都 大坂では丹前と呼びました。関東から上方に伝わりました。掛け衿の風習も小袖にはなかったようですが 布団と兼用したためか 衿が汚れるので 掛け衿の習慣もうまれます。 5代将軍綱吉の生母は町人出身でしたが掛け衿をしていたそうです。(文献に残る身分のある女性ではじめて掛け衿をした人)
身八つ口や振り口について
昔は婚姻すると男性と同じように脇にあきをつくりませんでした。文化年間(1804)ごろから既婚女性でも八つ口をつける習慣がうまれたそうです。帯の巾が広くなる事が原因のようです。
またこのころ掛け衿を黒にする事が流行し裏を返せば普通の衿になります。晴れの日と普通の日を使い分けました。
夏 浴衣の衿の裏に紅絹や緋ちりめんをつけて部分的に裏がえすという着方が流行した時もあります。