歴史編4 女性の帯

南天

帯の結び方 男女の歴史

帯の結び方は三種類あります。後結び 横結び 前結びです。結婚すると前結びにする習慣がありましたが 前で結ぶと日常生活は邪魔になるためだんだんと廃れて遊女や老女だけに前結びの習慣が残ります。遊女の場合、たとえ一晩でも妻として一夜を過ごしますという事だそうです。余談ですがお江戸の町は男性の方が多く、女性を大切にしないと相手にされなくなるそうで独身の男性も多く、男性の再婚は難しい時代だったそうです。
時代がすすむにつれてより装飾性が増して、帯巾がひろくなります。帯巾がひろくなると横結びはやりにくいので後結びか前結びの方が支流になります。歌舞伎役者が帯結びを考案し流行させます。女形の役者が少しでも理想の女性に見えるようにするために大きな帯結びにしたようです。吉弥結び 路孝結び 水木結び 平十郎結びがあります。
帯締め 帯揚げは帯の結ぶ形にもよりますが帯巾が広くなり帯だけでは重さに耐えきれないために帯揚げが考案されます。また綸子の生地がほどけやすいので それを補うために帯締めが考案されます。

名護屋帯

名護屋帯は組紐の帯です。文禄の役で九州名護屋(佐賀県)に本営を置きました。そこで韓組の技術が伝えられました。長さが1丈2尺(約4m50)ほどあり幾重にもまわして締めました。男女共用でしたが宝暦ごろまで使っていたようです。

歌舞伎役者が考案した帯

◎吉弥結び

吉弥結び

女形歌舞伎役者 上村吉弥が延宝の頃(1673~)考え出した結び方。図は男帯で結んだものです。
歌舞伎の演目お染久松「うきねのともどり」で久松が朱子帯でこのように締めています。イヤホンガイドの方が説明されていたので間違いないと思います。
このころの女性の帯巾が27センチと現在に近くなります。

吉弥結び

吉弥結びは一つではないようです。昔の広辞林には蝶々結びを伸ばしたような絵が描いてあり、結んだ両端を従来より長く垂らしてくけ目の角に鉛の重りをいれたと説明されています。他には斜めに結ぶ腰元結びのような図がのっていたりします、どれがほんとうなのかよくわかりません。

吉弥結び 腰元結び

他には斜めに結ぶ腰元結びのような図がのっていたりします。どれがほんとうなのかはよくわかりません。一人の役者が一つだけ 帯結びを考案するということではないので 複数あっても おかしくはありません。今のように特許制度があるわけでもなく 見方をかえれば 蝶々結びを斜めにしただけのことではないか?とも思います。

◎ 水木結び

水木結び

水木結び元禄年間(1688~)歌舞伎役者水木辰之助が流行させた水木結び。
この結び方はだらり結びに発展、舞妓さんが結んでいる帯です。

◎ 路考結び

路孝結び

二代目 瀬川菊之丞(1741~1773)名代俳号が路孝といった。美貌で「王子路孝」とよばれる。王子村の農民出身の女形。お太鼓結びの原型。文化四年(1817)に江戸亀戸天神のお太鼓橋再建によって お太鼓とよばれるようになった。帯枕がいつごろから使われるようになったかは不明

◎ 平十郎結び

平十郎結び

三代目女形村山平十郎が流行させたいつの頃の人かよくわかりませんが初代は立役で元禄時代に活躍した人です。享保年間(1716~35)このころ帯巾が34センチが基準

しごき帯

現在はおはしょりをしてきますのでしごき帯を一般の人はほとんどつけません。七五三、花嫁衣裳、舞妓さんが遠出をする時などは使用します。おひきずりが当たり前だった頃にはしごき帯も普段に使用しています。
鈴木春信 「隅田川河畔春遊図」 女性がしごき帯をつかって裾を上げているのがわかります。

鈴木春信 「隅田川河畔春遊図」

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